読了 「自分の意見で生きていこう」ちきりん著

とても面白かったです。どんな本なのかは面倒なので書きません。詳しくはこちらをご覧ください。

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この本の内容とは、少し離れてしまうかも知れませんが、読みながら思い出したこと、考えたこと、その辺りのことを書きたいと思います。

小学校に上がって、最初の通信簿に書かれていたのが、発言が少ないとか、もっと手を上げて発言しなさいとか、自分の意見を言いなさいとか、そんな事ばかり書いてあった記憶があります。そんなことわかっています。でも小学校に上がったばかりの私には、わかっていてもできなかったのですよ。
今から思うと、それ違うでしょう!と言えるのですが、子供の頃はそこまで考える余裕もなく、そんなこと指摘されても~、と困惑していました。

我が家では自分の意見など言えるような雰囲気ではなかったし、下手なことを言えば怒鳴られる、押し入れに閉じ込められる、お尻ペンペンは当たり前、殴られてもだれもかばってはくれませんでした。とにかく大人が怖かった。
それは学校でも同じです。小学校1年の時から、担任の教師は若い女性でしたが、神経質そうな感じでしたし、いつもいつも緊張していました。
そんな中で、自分の意見など言えるはずもない。いつも大人の要求する答えを探そうとして、自信が無くて、無邪気に発言などとてもできるわけがない。

できないことを指摘して評価するのではなくて、それが大切なことならば、できるように指導していく、練習するというのが本当なのだと思います。欠点を指摘するばかりでは、もともと自己肯定感が低いのに、ますます内気になってしまいます。

あ、そうそう、ずいぶんと昔ですが、熱中時代というドラマがあって、主演は水谷豊さん、北野広大という名前の北海道出身の小学校の先生の役でした。


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広大先生は、子供たち全員に挙手を要求しました。
自信のある子はパー。ちょっと自信のない子はチョキ。全く自信のない子はグー。
グーで挙手している子供でも、容赦なく当てて発言させました。
もちろん、間違えていてもいいんだよって、うまく発言できなかった子供へのフォローは十分すぎるくらいでした。
これって、自分の意見を言う練習なんですよね。
教育っていうのは、生きていく力を身につけていくもの。
それなのに、教師や大人たちの事情で、意味のない評価を与えて、子供たちをふるい分けているだけのような気がします。
まぁ、高度経済成長だった頃は、自分の意見など持たず、上からの意向に全面的に従っていた方がいろいろと都合が良かったという側面はあります。でも時代は変わりました。自分も意見を持っていないと、自分自身が幸せにはなれないのだなぁと、あらためて思います。

そういえば、アメリカの大学の講義の様子をテレビで観たことがあって、学生たちがどんどん発言しているのです。
最初は発言していることについて感心したとか、そういう感想は無くて、その発言の内容があまりにもレベルが低いというか、どうでもよいというか、的外れなことばかりというか、へぇ~、よくそんなこと発言できるよなぁと思っていたんですね。
で、後から気が付きました。
この人たちは自分で考えて、そして自分の意見を言う練習をしているんだなって。
できないから練習する、それは名門大学の学生でも同じです。
そして、自分の意見を言うというのは、訓練しないとなかなかできるものではなということ。もしも、何の訓練もなしにできているという人がいたとしても、育った環境で知らず知らずのうちに練習していただけのことだと思います。

だからね、まずは自分の意見を言うためには、まずは間違えていても良いんだよっていう環境が必要なんだと思います。少なくとも、その練習をする子供の頃、できれば大学生の頃までは。つまりは、心理的安全性ということになるのかな。

北野広大先生は、いつも子供たちに心理的安全性を与えていたのですね。
ぐー、ちょき、ぱーも、その一貫だったんだなと思えるのですよ。

意見は間違えていてもいいのです。というか、正解が無いから意見なのです。
意見を求める側は、自分に都合の良い発言をしてもらえれば気持ち良くなりますが、だからと言ってそれを正解としてはいけない。
正解がないものを対象にしているから意見なのであって、調べればわかるようなことは、意見ではないのです。
そして、自分に都合の悪いことを言われてもそれで否定してはいけないし、また、意見が自分とは違っていても、その人そのものを否定してはいけない。

私はよく、「そんなこと言わなくてもわかるだろ!」と叱られたものです。お前はなんて低能なのだと言わんばかりに言われるのですが、そうは言ってもわからないことだらけでした。なんであんたの気持ちを察して、しかもそれに従って行動しなければならないの?といつも思っていました。

多様性の重要性がやっと理解されてきたこの世の中です。

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最近、ぼんやりとテレビを見ていたら、帰国子女の女の子が、小学校の国語の時間に教師に意見を求められて、自分の思うように言ったのですね。教師に「それは間違っている」と言われてしまって、何だかなぁと思った...というのをやっていました。
教師の意向にあった発言をすると正解で高評価。そうでなければ低評価。
教師って絶対的な存在なの?なんだかおかしいよね。
そんなところで成績を付けられてしまったらたまらないよね。
その教師が強面だったり、ましてや暴力を連想させてしまうような人だったり、神経質な人だったりすると、顔色ばかりうかがってしまうようになるよね。
それは学校だけでなくて、家でも同じこと。

意見に間違いはないのだけれども、100歩譲って間違いがあっても、その間違いが許されなくてはならないし、そんなことで評価されてはいけないし、結局は、やっぱり心理的安全性というのがキーワードになるのだろうな。

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つまりは、子供の頃、学生の頃、意見を言う練習をするなら、心理的安全性は絶対に必要だし、また、働くようになってからだって、誰かに意見を求めるなら、そこにはやはり心理的安全性は絶対に必要なんだなと、結局はそこにたどり着くのではないかと思うのでした。