読了 「天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル」 岡南著

私が大学の建築学科に籍を置いていた頃、ちょうどガウディブームでしてね、いろいろな本が出版されたし、テレビでもよく取り上げられていたという記憶があります。

大学ではなかなか馴染めず劣等生だった私。
建築家の安藤忠雄を招いての特別講義があった時でも、その安藤さんの話を聴くということの価値がよくわからなくてすっぽかしてしまうという暴挙に出た私でも、アントニオ・ガウディのことはよく知っていたわけです。というか、好きでよく写真集も見ていたし。
建築関係の会社でアルバイトをしていた時、その会社の専務さんに好きな建築家は?と聞かれて、迷わずガウディと答えてしまったのですが、その専務さんはアンチガウディだったみたい。あんなお化け屋敷のどこが良いのかと、ル・コルビジェの作品集みたいなものを引っ張り出してきて、コンコンとお説教されてしまったのでした。
確かにお化け屋敷かも知れんけど、そっちはのっぺらぼうですたい(どこの方言?)と言いたかったけど言えませんでした...。

最近、また、ガウディが設計したサグラダファミリア聖堂が注目されているようですが、私が大学生だった当時、大学の教授は、自らの著書に「あぁ~あ、あれじゃ永久に完成しないよねぇ~」と書いていましたね。
なぜなら、当時、完成まであと100年かかると言われていて、そこに材料の石不足でコンクリートを使ってしまったこと。コンクリートは持ってもせいぜい100年なので、完成するころにはそのコンクリートの部分はもうダメになっているということ。永遠にコンクリートの部分を取り換えひっかえの工事をしなければならないというわけ。
でも、あと数年で完成のような報道になってますよね。やっと本気で作り始めたのかな?

かなり前置きが長くなってしまいましたが、今回読んだ本はこちらです。

bookclub.kodansha.co.jp

すこし前に読んだ「発達障害のいま」という本の中で、参考文献として紹介されていたものです。

tohost3250303.hatenablog.com

タイトルからすると、なんだか発達障害の人は天才だ!みたいな感じに捉えられてしまいそうですが、決してそういうわけではなくて、発達障害の人には認知の特性が偏っている人が多くて、それを大きく視覚優位と聴覚優位に分けて解説しているものです。
ま、簡単に言ってしまえば、同じ発達障害の気がある私は天才ではないことからも、簡単にわかることです。でも、本当のことを言うと、私は子供の頃、自分は天才なのではないかと密かに思っていたのですけど…(笑)。

最近読んだ本の中には、こんなものもあります。

tohost3250303.hatenablog.com

この「頭のよさ」テストで、私はかなり視覚優位の特性だということが分かりました。

この「天才と発達障害」では、視覚優位の代表としてアントニオ・ガウディ、そして聴覚優位の代表として、「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルを取り上げています。

先に感想だけ言ってしまえば、とても面白かったです。
特に、ガウディのところについては、本当に私と重なることばかり書いてあって、おぉ、あのお化け屋敷の天才と私は同じだったのだなと、共感しながら読んでいたのでした。
一方でルイス・キャロルの方はどうかというと、私とは違う聴覚優位のはずなのに、ところどころ私にも重なるところがあって、私の症状の複雑さをさらに実感する羽目になり、気持ちが重くなってきました。
だって、1つ例を挙げれば、ルイス・キャロルは吃音だったのだということなのです。
11人兄弟で、その兄弟のほぼ全員が、程度こそ差があるとはいえ、吃音者だらけだったとか。

私は自分の吃音について、私の認知特性の視覚偏重が原因の一つなのではないかと考えていたのです。でも、ルイス・キャロルに見るように、聴覚優位の人でも吃音になるのだなと、私の認識が少し否定されてしまうことになりました。
でも、考えてみれば、認知特性というにはインプットの部分で、吃音はアウトプット。そりゃぁ直接の関係ではないよな、と自分を納得させています。

私が視覚優位なので、自分のことを踏まえて、主に視覚優位の話を書きたいと思います。

視覚優位の人の特性として、言葉や文字の情報を、まずは映像に変換してインプットするわけです。そのイメージができないと、そこからなかなか進めなくなってしまう。
そのせいで、例えば、行ったことのない場所に行くのが苦手だったり、何か初めてのことをするのにとても時間がかかったりということがよくあります。自分でイメージできないことには、とても不安感を覚えるのです。
その通りです。私もまさしくそれです。
ちなみにガウディも私と同じように、ほとんど旅行に出かけることは無かったそうです。ほとんど家に閉じこもっていたらしい。

え?それでよかったの? 早く言ってよぉ!

大学の課題って、外に出なければこなせないものが多くて、それが苦痛で仕方なかったのに!
ガウディを見習って、私も閉じこもって課題をこなしていれば良かった(笑)(笑)。

そして、視覚優位の人の性質として、まずは全体を認知するということがあります。
聴覚優位の人はその逆で、全体を見るのが苦手な場合が多いようです。
全体を見るので、そこに何か違和感を感じることにより、間違いを見つけやすいのだそうです。聴覚優位の人は、まずは細部にこだわってしまうので、全体が見えなくなってしまう。

私が数学が得意だった話は、今まで何回も何の自慢にもならないのに、自慢気に語ってきました。またその話です。
実は私は、高校の2年生の秋くらいまで、とんでもない劣等生だったのです。
1学年350人くらいいて、その中で300番台。下から数えて何番という成績でした。
ある時、数学の主任の教師から宿題が出て、設定された期日までに問題集の○ページまでやりなさいというもの。数十ページにも及ぶ量です。ま、別にやらなくても成績には影響しないということでしたので、多くの同級生は無視していました。私もその一人でした。
たまたま部活のない日曜日があって、その日は他にも何も用事が無くて、思いっきり暇を持て余している時がありましてね、その時に魔が差したとしか言いようがないのですが(笑)、その宿題をやってしまったのですよ。朝から晩まで、一日中数学漬けでした。

信じてもらえないかもしれませんが、その日を境に、一気に見えるようになったのです。
一日の数学漬けで、2年生までの学習範囲を網羅してしまったのですが、全体を把握したことによって、どんどん映像としてイメージできるようになったのです。
2次元だろうと3次元だろうと、時間軸も含めた4次元だろうと、容易にイメージできて、問題の解き方がどんどん湧いてくる。逆にどうしてもイメージできない時は、もうお手上げなんですけどね。
物理も同じ。全体を知ることで、例えば力学では物の動きを頭の中で映像としてイメージできるようになり、自分でも怖くなるくらい成績が上がったものです。
3年生になると、数学や物理では、常に学年で1番か2番でした。もう一人の1番か2番は、東大に行きましたが、彼の認知特性はどうだったのだろう?
たぶん、視覚聴覚、バランスよく良いものだったのだろうな。あ、東大に行くような人は、そういう人が多いようですよ。
そう、今から思うと、私は自分の認知特性に合った勉強の仕方をしたのだなということです。

そうそう、余談ですが、高校の数学や物理の授業って本当につまらなくて無視していたのですが、S台予備校のT大実践模試でそこそこいい点を取ったら、夏期講習に無償で招待してもらって、そのときの物理の授業がとても面白かった。
まずは黒板いっぱいに宇宙を書いたのですね。今までわかりにくかったことが、一気に見えてきました。
言葉を映像に変換することなく、最初から映像で頭に入ってきた。
でももしかしたら、聴覚優位の人にはわけのわからんものだったのかも...。

そんなこともあって、いろいろな人に、どうしたら数学ができるようになるの?と聞かれたものですが、その度に、まずは一通りのことをできるだけ短い時間で勉強するようにアドバイスしてきましたが、それは間違いだったようです。私の偏った認知特性では力を発揮できたものの、もしも逆の聴覚優位だとしたら、コツコツと公式を一つづつ暗記するとか、問題の解法を一つづつ覚えていくとか、そういったことの方が良いのかも。

そうそう、著者自身も視覚優位の方でして、あとがきのところに、視覚優位であるが故の苦労が書いてありました。
文字の情報をそのままインプットできないのです。
まずは入ってくる情報を映像のようなイメージに変換してインプットする。アウトプットするときは、文字でインプットされた情報ではないので、言葉ですぐに出てこないのです。そのイメージをまた言葉に置き換えるという作業が必要になってくる。
さすがにこれだけ分厚い本を書くとなると、普通の人でも大変なのに、ものすごい苦労なのは容易に想像できます。
わたしも同じです。言葉としてインプットできていない。全て映像(イメージ)に変換している。そのイメージをその都度変換しなければならないので、言葉がポンポンと出てこないのです。
これは吃音で言葉が出ないのとは、また違った感覚です。

そして自分の中のイメージを文章に変換させるには、それなりのトレーニングが必要なようです。著者の方は、一度映像に変換し理解したところで、今度はそのイメージを手書きで言葉に変換するのだそうです。パソコンのキーボードを叩くのでは、自分の記憶として定着しない。
なんだかそれ、私も思い切り共感です。
パソコンでいくら入力しても、そこでおしまい。そこから知が続いていかない。
学生の頃の勉強法は、とにかく手書きでノートに書くという作業を延々としていました。授業でノートをとるのはまったくできませんでしたが、今から思うと、教師の話や教科書、参考書の情報を自分の中でイメージに変えて、それをまたノートにまとめるという作業をしていたのだと思います。
そう、私の場合、読んで暗記なんてとても難しいし、文字列を機械的に暗記するなんて思いっきり苦手です。まずは自分の中で映像としてイメージできないとどうにもならないのです。

イメージを言葉に変換する練習もしなければなりません。怠るとなんだかわけのわからないということになってしまいます。

前にも一度書いたことがありますが、大学の1年の時の一般教養の物理の話です。
私は人がたくさんいるところにいると正気を保てなくなります。
そんなわけで、出席をとらない講義に関しては、その講義の内容とテキストの難しさによっては、全く出席しなかったものでした。
その物理の講義が正にそれでした。
一度だけ出席してみて、これなら楽ちん。一番最初と一番最後の講義だけ出席したのですが、思った通り試験も楽々でした。自分では全部できて100点のつもりだったのです。
帰ってきた答案を見てビックリ。-2点が2か所あって、96点になっていました。
よくよく見てみると、赤鉛筆で「日本語がおかしい -2」が2か所。
自分でのイメージはしっかりできていたのですが、そのイメージをまた言葉に変換する作業がぎこちないのです。

ん?もしかして、私の吃音の原因の一つはそれか?

最後に聴覚優位の話を。
聴覚優位の人の中には、相貌失認と言って、人の顔が区別できない人がいるのだそうです。のっぺらぼうに見えてしまうのだとか。

微妙な色の違いを認識できない。そのために陰影を認識できない。遠近を認識できない。
それが原因で人の顔を区別できないのですが、面白いことに、写真にして2次元の映像にすればわかるのだそうです。ルイス・キャロルが正にそれだったそうです。
また、これは本人にも自覚がないこともあるそうです。なんかおかしいなと思っても、他人には言えずにいる場合もあるのだとか。程度の差はありますが、その症状を持つ人は、決して少なくないのではないかということです。

視覚優位の私には、まさかそんな人がいるなんてという感じですが、自分の見えているものが他の人には見えていないことがある。その逆も然り。
私の見えているものが他の人には見えていない、少なくとも同じようには見えていないのではないかと、ずっと疑っていた私には、やっぱりそうだったのねと、そう思えるのでした。

あれ?もっと書きたいことはたくさんあったはずなのに、もう限界になってる。
かなり眠くなってきたので、また何か思い出したら、書き足すかも知れません。

うん、とても面白い本でした。ということで。

あ、なんだか自分のことを、数学と物理が得意なスゴイ人と書いてしまっているようですが、ただ得意と不得意のギャップが大きすぎるだけなのです。
これも前に書いたことがあるのですが、共通一次の国語の古典の部分はなんとほぼ0点。マークシートですので、適当に答えても、2割くらいは取れそうなものです。
英語はそこそことれましたが、自分としてはものすごい苦手意識があります。
どんなに勉強しても、英語を話せるようにならないのは、自分の認知特性が視覚に偏っているからなのだと、言い訳をしている私なのでした...。