人が絵を描くということ

アメリカのアートの品評会で、AIで生成された作品が優勝してしまったとか。

www.gizmodo.jp

なんかね、私ね、アートってやつに胡散臭さと言うか、気持ち悪いなと思っていたので、ざまあみろくらいに思ってしまったのですよ。

作者が自分の作品に酔うのは理解できる。
なぜなら、絵を描くのって、とても楽しいことだから。
いつだったか、テレビで芸人が東京芸大潜入みたいな番組をやっていて、その芸人が美術作品の作成に挑むのだけれども、芸大の先生はずっとこう言い続けていたんです。
「絵に失敗はない。」
それを聞いた時、自分の解釈としては、こんな風に捉えました。
「絵を描くということは楽しいこと。今まで気が付かなかった自分に気がついたり、自分の中に溜め込んでいた感情を表出して、とてもスッキリしたり。
だから、出来上がりの優劣など気にしないで、自分の思ったままに、自分の表現を全うすれば良いんだよ。
つまり、絵を描く本人は自分のために絵を描いているのであって、その前提の下では、制作過程で自分に酔ってかまわないし、気持ちよくなることができれば、作品がどんなものであっても失敗ではない。」

でもねぇ、アートってやつを語る人の多くは、自分が下した評価に酔っている感じがして、とても気持ち悪い、そんな風に思えてしまうのです。
そんなの好きだとか嫌いだとかでいいじゃん。
目の前にある作品に自分の経験や感性を重ねて、何を感じるかということです。
あくまで個人的な、と言うよりも、その作品と個としての自分との関係の中でしか語れないはず。
それがどういうわけか、普遍的な価値を定義して、いちいち理屈こねくりまわして、そんな風に理屈こねくりまわしていることに気持ちよくなっている人。そういう人を見ると、何か嫌な気持ちになってしまうのです。ごめんなさいとしか言いようがないのですけど。

アートなんて、それに価値を与える人がいるから価値があるだけで、そうでなければただのガラクタですよ。普遍的な価値などないと私は考えています。ちょっと間違えれば粗大ごみ。

また、技術についても、職業としてやるなら必要でしょう。素人でもうまいに越したことはない。でも、その技術は目的ではなくて手段です。

※アートっていうやつにケチをつけていた記事が過去にもありましたので貼り付けておきます。

tohost3250303.hatenablog.com

今回のAIの絵が優勝したことは、アートを評価することで気持ちよくなっている人に向かって、アートなんてそんなもんだよって言っているみたいで、スッキリした~と思っていたのですが...。

 

いろいろと背景を見てみると、この品評会そのものが大したことのないものみたいです。こちらの方がいろいろと調べて書いていました。

webbigdata.jp

アメリカ・コロラド州の農業見本市がベースの催し物。農産物の品評会の他に早食いコンテストみたいな企画もあり、その中での絵の品評会。
さらに笑っちゃうのは、そのAIの絵はデジタルアート部門に出品されたのですが、出品数が18作品(出品者は11人)だけという、なんともローカルな小さいお祭り。
テレビのニュースではそこまで報道しなかったよね。
事情を知らない私は、てっきり権威のある品評会だと思ってしまっていました。

絵を見る限り、私にはそんなに自分の心に響いてくるような作品ではなかったので、結局そんなものだったんですねえ、としか思えないな。

AIだから優れていたというよりも、他の作品が大したことなかったのかな、少なくとも見た目的には。ただそれだけの事ではないのかな。

それにしても、絵を描くというのは、前述したとおりとても楽しいことです。
商業的にAIを利用して絵を描くというのは、これから当たり前のことになっていくような気もするけど、個人の経験としての絵を描くという行為までAIに任せてしまうようになるとすれば、ちょっと違うような気がします。
下手でも良いし、そこに味があるし。
絵を描くということが、職業として成り立たなくなることはあるかも知れない。でも、この絵を描く楽しさまでAIに奪われてしまうとしたら、それは本末転倒です。
うまいかどうかの価値基準なんて乏しいのですから。やっぱり絵に失敗はないのですから。