単純なヒューマンエラーだとは、どうしても思えないのですよ。

送迎バスの幼児置き去り事件。
ヒューマンエラーは、どんなに注意しても起きるもの。

この置き去りを防ぐために、アメリカでは、エンジンを止めた後に、車内の最後部にあるボタンを押さないとアラームが鳴り続けるというシステムがあるようです。

www.autocar.jp

シンプルだけど、クソみたいに単純だけど、素晴らしいと思いました。
これくらいなら、大した費用負担もなく準備できそうな気がするけど、どうなんだろう?
問い合わせが殺到しているようですね。すでに導入する方向で検討している事業所もあるようです。

でも、うっかりとか不注意だったとか、本当にそれだけなの?
もっと根深いものがあるのではないかと思ってしまったのですよ。

というのも、ニュースで見た園長の記者会見で感じた違和感。

体調を悪くする人が続出したとかで、打ち切られてしまったようですね。
ニュースで見たのも、ほんの少しだけだったのですが、気になると止まらなくなってしまうのです。

だって、職員の中には、亡くなってしまった女の子がいないことに気が付いていた人もいたということですよ。
無断で休む園児もいるから、今回も無断で休んだのかと思ったのですって。
それって、嘘でしょ。言い逃れでしょ。言い訳にもなっていない。
だって、亡くなった園児については、今まで無断で休んだということはなかったっていうじゃないですか?

いないことが分かっていながら、確認しなかったこと、もちろん大問題です。
それ以上に、何か異常があっても、それを言い出しづらい雰囲気が、そのこども園にはあったのではないのか?そんな気がしてしまいました。

自分の意思で動いてはいけない、余計なことをやったら怒られる。園長もしくは、それに準ずる、誰か支配者のような人がいて、その人の顔色を窺ってばかり。
皆、大切なことは責任を負いたくなくて人任せ、思考停止して、ビクビクしている。

そういう雰囲気が、園内にあったのではないか?

もしも、思ったことを自由に言える環境であったなら、女の子がいないと分かった時点で、何かしらの行動に移せたはずだと思うのですけれども...。
もちろん、ヒューマンエラーを防ぐ対策はあるべきだと思うけど、今回の事件は、それ以前の問題なのかなって。

私の考え過ぎだろうか?

またやって来てしまった9月11日。
この日は私の兄の誕生日であるが、そんなことはどうでもよくて、それはアメリカの同時多発テロの日。

少し前に読んだ本に、このテロは防げたはずのものだったと書いてありました。

tohost3250303.hatenablog.com

この記事から少し抜粋します。

例えば集団知。 例え優秀な人ばかりを集めても、その人たちの知的背景が同じならば、同じとまでもいかなくてもダブる部分が大きければ、結局、知の広がりは限定的なものになってしまう。 この本の一番最初にあげていた例です。 アメリカでおきた同時多発テロは、もしもCIAの職員が白人ばかりではなく、もっと多様性に富んでいれば、当時のアメリカで起きていた「異変」に気づいた人がいたかも知れず、未然に防げたかもしれない。 でも、私としては、その異変に気が付いていても、仮に間違っていてもかまわないから、それを指摘できる組織の雰囲気が無ければ意味がないのではないのかなぁ、と思って読み進めいていたら、やっぱりそこはちゃんと押さえていました。 前提として、心理的安全性は絶対に必要。 やっぱりそこなんですよね。

読了 多様性の科学 マシュー・サイド著 - 通りすがりのものですが

CIAの職員は、とても優秀な人ばかりだったのにも関わらず、白人ばかりだった。知的背景が似かよった人ばかりの集団であったために、集団知としてはとても弱いものだった。

しかし、今回の置き去り事件は、異変に気が付いていた人がいたのにも関わらず、起きてしまった。

集団知が最大限に機能するためにも、心理的安全性が絶対に必要なんです。

あくまでこれは私の勝手な憶測であって、実際のところはどうだったのかは分かりません。私が考えすぎなのかもしれない。

集団の中で、自分の優位性を保つことに躍起になっているリーダーの人、少なからずいますよね。
でも、リーダーがまず一番にしなければいけないことは、その集団の中に、心理的安全性を確保すること。言いたいこと、言わなければならないことを、誰もが自由に言える環境を作ることだと、あらためて実感しました。

しかしそれにしても、記者会見でのあの園長、とても気持ち悪かった。

9月11日は、この歌を聴いてすごすことにしています。


www.youtube.com

同時多発テロをきっかけに書かれた歌。

初めはもっと生々しい歌詞だったそうですね。そこから言葉をどんどん抽象化して、こんなにやわらかい歌になったということです。