「困っている人がいたら手を差し伸べる、それは普通のことです。」これがどこにでもある普通のことであったら良いなと思ったこと。

少し前にとあるターミナル駅周辺を歩いていた時のこと。
私のすぐ前をお婆さんが歩いていました。
背中を丸めて一歩一歩ゆっくりとゆっくりと。
クリスマスの週末ということで、まわりは小さな子供を連れた家族連れや、恋人同士と思われる男女ばかりでとても賑やか。
そこのお婆さんの空間だけ、周りと少し違う空気感でした。

このお婆さん、大丈夫かなと少し心配になっていました、
周りとペースが違い過ぎるので、ぶつかって転んだりしないかとか、そうでなくても、足元がおぼつかない。

その時は特別急いでいるわけでもなかったし、少し気になって、しばらく追い抜くこともなくすぐ後ろを歩いていたんです。
そしてその駅に併設されている商業施設へ。

お婆さんもその中に入ろうとしたんです。
でも、入り口が自動ドアではなくて、手で押して開けるドアでした。
お婆さんの力ではなかなか開かないの。
そのお婆さんの背中越しから手を出して、そのドアを開けようとした時、両サイドからも手がニョキっと出てきました。
私と同じことを考えていた人が、私の他に2人いたようです。
高校生か大学生くらいの若い男の子と、私よりも少し年上かなと思われる女性の方と。

少し微笑ましく思えました。この世の中も捨てたもんじゃないなって。
アフガニスタンで亡くなった中村哲医師の「困っている人がいたら手を差し伸べる、それは普通のことです」という言葉が大好きです。
中村医師は医師という仕事以外に、アフガニスタンの人達のために自ら率先して土木の工事まで行っていました。
凡人にはそこまではなかなかできない。でも、身のまわりにもできることはたくさんある。自分が生活しているすぐ身近で何か困っている人がいたら、そっと手を差し伸べる社会ってとても優しくて良いなと思うのです。

世界は優しい。そう潜在意識に刻むことができたら、それは自分への自信にもつながります。

私はいつも、「お前は自分に自信が無いんだ」と言われ続けてきました。
それがどういう意味か分からなかった。
自分には自信が無いという意識は乏しかったし、そういうことを言ってくる人への反発もあったし。
でも、最近ようやくその正体がわかったような気がします。
それは、私は世界を信頼していないということ。

自分への自信というのは、すなわち世界を信頼できるかということ。
最近読んだ脳科学や心理学の本は、ほぼそういった内容のことばかり。
ももはな (id:however-down) さんのブログにときどき登場する斎藤一人さんの本でもそうでした。初めはスピリチュアルな内容なのかなと思ってしまったんだけど、少し言葉を翻訳すれば、最近の脳科学の本に書いてある内容そのもののように思えました。
そして、自分に自信を持つ=世界を信頼している人は、幸せの感度も高いのかなと思います。

そしてどうやって世界を信頼できるようになるのかと言えば、それは特に幼少の時の体験になってしまうけれど、安心して過ごせる場所を確保すること。
生まれたばかりの子供は脳神経の量がものすごいのだそうです。ものすごく敏感なんです。
その脳神経は使わなければどんどん減っていく。
逆に使えばどんどん敏感になる。

不安を感じないで育った子供は、不安を感じる神経がどんどん退化していく。
一方で不安な気持ちを持って過ごした子供は、不安を感じる脳神経がどんどん発達してしまう。
私は子供の頃、大人が怖くて仕方なかった。それは家でも学校でも、保育園でもそうでした。
いつも恐怖感、不安感を抱えていました、
そんな中で世界への信頼を育むことなんてできるわけない。
黒川伊保子さんのいうところの、「無邪気な信頼感」を育むことができなかったんだな。

tohost3250303.hatenablog.com

ももはな (id:however-down) さんの仲間が、やっぱり仲間の梨子ちゃんを、この時期人でごった返しているアメ横に連れて行ったんですって。

梨子ちゃんは指と顎から上しか動かず、座らない障害があって、ずーっと電動車いすで過ごしています。

however-down.hatenablog.com

この人出のすごいアメ横に行ってみたい梨子ちゃん。
傍観者ならできるかできないかを語るのだろうけど、その周囲の人も含めた当事者なら、どうしたらできるのか、それを考えたいですね。
ももはなさんの仲間の人達も、そういう発想だったようです。
ステキです。

梨子ちゃんはこんな障害を抱えていても、ちゃ~んと自分に自信を持っている。
それはやっぱり、.世界を信頼しているということなんだよね。
そして、ももはなさんたちに出会って、その信頼感はもっと増したんだよ。
そうやって、自分への自信も育まれていく。

でも、周りからの視線はきついよね。
私自身も、自分が吃音でうまくしゃべれないのを人に見られるの嫌だもん。
恥ずかしいとかそんなことを感じる余裕さえもなくて、トラウマになっているのでしょうね、自動的に反射的に人前に出て行くのを回避してしまう。
恥ずかしいのを我慢するのなんて慣れてしまったけど、身体が自動的に反応してしまうんだ。
よく、障害を理解して欲しいっていう人がいるけど、そう思うならその障害を誰もが見れる場所に晒さないとなかなか追いつかない。日常の風景に溶け込ませて、それが当たり前の風景にならないとなかなか難しいと思います。
障害を持った人には、勇気をもって街に出てほしいな。
そうしないといつまでもこの奇異な目は変わらないから。

ただ、奇異の目で見る人にだって、優しさはあるんだよね。
当事者からすれば、そうは分かっていても、どうしても嫌だなとは思ってしまうけど。
見てしまう立場からすれば、自分もそうだけど、そういったいつも見ない風景に出会うと、どうしてもそこでどういうことが起きているのか確かめたくなる。また、何か困ったことがあればお手伝いしてあげたいとも思うかも知れない。そういう視線もあるということは、わかって欲しいなと思います。
私はできるだけ視線は向けずに、でも視界の中には入れておくように心掛けています。

とは言え、まぁ、中にはキ〇ガイもいるのでしょう。
嫌がらせをして来たり、意味のない批判を浴びせてきたり。
そういったやつらには、ガンガン恫喝するのもありかなとは思います(笑)。

 

私は感動とか、勇気をもらったとか、そういうことはあまり感じませんが、同情とか憐れみとかではなく、目の前に困っている人がいれば、ただただ手を差し伸べたい、そう思っています。もちろん自分の能力の及ぶ範囲内にはなってしまうけど。
それが中村哲医師のいうところの「普通のこと」であったらいいな、そういう社会であったらいいなと、本気で思っていますよ。

なんだか取り留めのない記事になってしまいました。
どう書こうかうまくまとまらないうちに時間ばかり過ぎてしまい、結局まとまらないうちに書き始めて、最後までまとまることがありませんでした(笑)。

この記事は誰かに読んでもらうというよりも、私の思考を整理するためのものだとご理解いただけたらと思います。

以上です。