行きつく先は、すべてゴミ

私はときどき、自分が予言者なのではないかと思うことがあります。
物を見ると、それが将来どのようになるのか見えてしまうのです。

実際に見えるというよりも、イメージが脳内を駆け巡るのです。

なんだかすごいことを書いているようですね。お前、頭いかれているじゃないのなんて思われるかもしれませんが、簡単に言えば、将来の姿としてみーんなゴミに見えてしまう。

そう、どんなものでもいつかはゴミになるのです(笑)。

昨日もちょっと100均ショップに寄った時に、わぁ~って叫びそうになりました。
ゴミの宝庫!!!

買ったときはそれなりに活躍するのでしょう。

でも、一度その役割をこなしてしまえば、簡単に捨てられてしまうのだろうな。
値段が安いので、捨てることに対するハードルも低いのでしょうし。

簡単に捨てられるようなものでないものでも、同じようにゴミに見えてしまう。

例えば、高層ビルの建設現場。
普通の人なら、どんな建物ができるのだろう?とワクワクした気持ちになりそうなものですが、どうも私は、このビルは50年、早ければ30年、どんなに持っても100年もすれば、解体されてゴミになるのだろうなと、その姿がイメージされてしまう。

大量の産業廃棄物、粗大ごみのオンパレードになります。
なんだかじんわりきます。

アートなんて呼ばれている芸術作品も似たようなものです。アートを100%否定しようということでもないのですけれど。

巨大オブジェなんていうことになると、私にはガラクタというかもうすぐ粗大ごみ...そんな風に見えてしまうのです。

ゴミを少なくするには、究極はものを作らないということになってしまう。

もっと長く使うことを前提として、物の値段を上げないと。
そして、買う方も買うことにもっと慎重にならないと。

という私は慎重すぎでなかなかものを買えないのですが...。

今のところ豊かになるためには、大量生産⇒大量廃棄の世界なので、なかなか難しいですね。
断捨離で物を減らすというのをよく聞きますが、その前に物を買うなよって思ってしまう。

なんだかたくさんの人を敵に回してしまいそうな記事だな(笑)。

こんなことを考えていると、ますますものを買えなくなってきます。
経済活動の足を引っ張ってる私です。

その前に、まずは自分の部屋のゴミを片付けなければ。
将来ゴミになるものばかりではなく、今現在ゴミであるものくらいは捨てないと。

もうすぐ祖父の命日です。
そろそろ祖父が毎日のように食べていた塩豆を買いに行かなければ。

祖父の形見のグランドセイコー
少なく見積もっても、50年以上前のものです。

二十数年前に私の不注意で故障させてしまって、正規代理店に持ち込んだら、もう部品の在庫がないので完全には元に戻らないと言われました。
日付と曜日のところが動かなくなってしまったのです。

それが数年前に故障したときに、ご近所の個人でやっている小さな時計屋さんに持ち込んだら、もしかしたら日付のところも直るかもしれないよーと言われて、本当に直っちゃいました。
手に入らない部品は店主さんが自ら作ったのですって。

最近、また動きが悪くなってきた。
そろそろオーバーホールかな~。

私が生きているうちは、この時計も動かし続けたい、ゴミにはしたくないなと、そんな風に思うのでした。