今年の流行語大賞は、阪神岡田監督の「アレ」に決まりましたね。
選手が必要以上に優勝を意識してしまわないようにと、あえて優勝という言葉を使わずに、アレと表現していたら本当に優勝しちゃった。
そう言えば、新庄さんが日本ハムの監督に就任した時に「優勝は目指しません」と言ったのも、同じ理由だったはず。
戦力がかなり違うので、まぁ仕方ないか。
岡田さんはけっこう厳しいというか、ひねくれている発言をする人と言うイメージでした。でも、実は選手を大切にする優しい人だったんですね。
ものすごくイメージが変わりました。
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この「アレ」はとてもわかりやすかったので、まぁアレなのかなとは思うのですが、世の中には訳の分からない「アレ」がたくさんありまして。
私の母は新潟県出身ですが、その母方の親戚界隈では「アレ」がスゴイことになっていました。
母方の親戚の集まりで、何気に会話を聞いていると…
アレがアレしてアレにアレでさぁ~、アレのお陰でアレがアレになってアレしたんよ~
アレ~、アレがアレでアレだったんだぁ。本当にアレだなぁ~
って、こんな会話が永遠に続くのでした。
私の頭の中、大パニック。何が何だかわけわからん。
本当に相手の言ってることがわかっているんか、以心伝心か...
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本当は大賞には、大谷君がWBCで代表チームのチームメイトに言った「憧れはやめましょう」が選ばれたら良いなと思っていました。
憧れというのはなんとも甘美な響きです。傍観者でいるうちは、むしろ大切なことかも知れない。子どもがまだまだ遠い存在のスポーツ選手や芸能人に憧れるのは、全然問題ないのでしょう。
でも、当事者になってしまったら、もう憧れの気持ちは捨てた方が良いのかも。
プロ野球なら、その世界に入ってしまったら、その憧れの存在はそこからは倒すべき敵であったり、同じ高みを目指す仲間になります。
関係は対等です。
憧れというのはある意味絶対的な存在。少し間違えると、その人を無条件で受け入れるということにもなりがち。
でも、対等な関係なら、たとえ憧れの存在でも言うべきことは言わなければならないし、自分の方が優れていることを証明しなければならないこともあります。
何でも無条件で受け入れるなんてありえないし、そのためには、憧れを超えて言いたいことはなんでも言える関係性が必要なのではないかと思っています。
宝塚で起きてしまった自殺騒動も、憧れという気持ちが無ければ死を選ぶところまではいかなったのはないのかなって。
絶対的な存在だったその憧れの宝塚だったからこそ、ここまで拗れてしまった。
本来なら、そこまで行く前に、そんな組織に見切りをつけてやめてしまうとか、ふざけんなと言い返すこともできたかも知れません。
最近の日本のスポーツがすごく強くなってきているような気がしますが、その要因は、もちろん努力とか練習は大事ですが、憧れを越えてお互いに何でも言い合える関係性の構築なのではないかと思っています。
全員で目的や目標を共有して、全員でそこを目指す。余計な忖度は必要ない。
何というか、そういった呪縛から解放されつつあるのではないかと、そんな気がしています。
中に入れば、周りがどんなに優れていても、自分は自分で一人の人間として尊重されなければならないし、そうでないと成長は望めない、そんな風に思うのでした。
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あくまでも憧れを捨てるべきは中に入ってのこと。
私が鼻の下を伸ばして、きれいなお姉さんに憧れの気持ちでニヨニヨしているのは、別にかまわないことなのです。なぜなら、私がその人たちの中に入るわけはないのですから(=^ェ^=)