全員を特別扱いすれば良いのに

都立高校の入試で、吃音者は英語のスピーキングテストを免除されるんですって。
受験を間近に控えた吃音を持つ中学生には、ホッとした人もいるのではないかな。
でも、吃音者だけ特別扱いなの?と不満を持つ正音者*1も出てきて、吃音の子供たちは肩身の狭い思いをするのではないかなと、心配しています。

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都立高入試のスピーキングテスト、吃音者は免除 筆記から推定し加点 | 毎日新聞

障害だから配慮してもらうのは当たり前のことなのか?
こうなった時に、一番不利になってしまうのは、話すのが得意ではないけど吃音のような障害としては認定してもらえないレベルの人。
何かを特別扱いしてしまえば、必ず不満が出てきそうです。
実際、ヤフコメでもいろいろと出ていましたね。

私が高校受験を控えた中学3年生の時。
学校で面接の練習がありまして。
もう何日も前からドキドキです。緊張して眠れなくなるほど。
当日は、自分なりには、何とか喋れたとホッとしていたのですが、そこに試験官役の校長の心無い言葉。
「もっと、はきはきと話しなさい。面接ではとても悪い印象になる。」

今なら、この校長バカなんじゃないの、そんなの出来るくらいならとっくにやってるよ、どうしたらできるんだよ!?って言えるけど、あの頃の内気な少年がそこまで言えることもなく、しばらく落ち込んでいました。

あの時の校長がとるべき態度は、まずは私がつっかえながらもなんとか話したことを評価して(まさか、校長ともあろうものが、吃音と言う概念を知らないとは言わせない)、そして内申書などで事情を説明して、面接の時には受験する高校に配慮を求めるということではないのかなと思います。

面接は話し方を評価するものではないと思っていいるので、うまく話せない人に対して配慮するのはありなのかな。

私はその校長の言葉があまりにショックで、高校は面接のない都立だけしか受けませんでした。
自分が圧倒的に不利になる試験なんて、それこそ公平性を欠いているし、受けるだけ無駄。それくらいの気持ちでした。
もちろん、人前で話さなければならないのが嫌だというのが、とても大きいのですけどね。

今度は都立で英語のスピーキングのテストですか。
吃音者の逃げ場が無くなってしまうな。

繰り返しますが、面接はうまく話せるかの試験ではないよね。
その人がどんな人かを見るためのもの。少なくとも高校受験では、話し方がうまいかどうかが採点の基準になるわけではない。
でも、英語のスピーキングとなれば、そうはいかないね。
これはうまく話せるか、発音できるか。
どもって恥ずかしいのを我慢すれば良いってことにはならないんだね。

吃音者やうまく話せない障害を持っている人だけ特別扱いというのは、何となく合理的な感じもするけど、障害とまではいかなくても、どう頑張って練習してもうまく話せるようにならない、話すことが苦手な人もいる。
そういう人たちには何も救済措置はないし、そうなってくると、やっぱり吃音者だけずるいということにもなるのは、よくわかります。

逃げてばかりいたら、ずるいと言われてしまったことがあります。

高校生の時に、ある教科で、当番で順番に授業のお手伝いをするというのがありました。
教師の指示で、教材などの用意を手伝ったり。
その中には、授業の始めと終わりに号令をかけるというのもあって。
「起立、礼」
というやつです。

中学生の頃は学級委員などもしていたので、何度も何度も、その号令で言葉が詰まって出てこないというのがありまして、もううんざりと思っていたんですね。
中学の時は頑張りすぎました。一度たりとも逃げなかったんですよ。
むしろ、学校を休んでしまうと、もう二度と行けなくなってしまうのではないかという危機感があって、熱が40度近くあっても学校を休まずにいたくらい。
でも、それを繰り返してたら、卒業するころには、ストレスの閾値を越えてしまっていたようです。
パワーを全て使い果たしてしまった私は、高校に入ったころには、今日はちょっと無理という日は、ちょこちょこ学校をさぼっていました。幸いにも学校から親になにか通知が行くということもなかったのが幸いでした。

そう、授業の当番の日は、全て自主休講していました。

そうしたら、それに気が付いてしまった同級生がいて、面と向かって言われました。
「おまえ、ずるいよ」
彼は私の吃音を理解してくれている人の一人だと思っていたので、これは辛かったな。
中には事情を察して私に同情してくれる同級生もいましたが、やはり、彼の言った「ずるい」というのが一般的な本音なのかなと思います。

私としては、これをずるいと言われてしまっては、立つ瀬がない。
今なら、ただ勉強をしに高校に通っているだけなのに、なぜこんなストレスを抱えなければならないのか?もっと安心して勉強させてくれたらいいのにって思いますが、当時の私は、本気で学校をやめたいと思ったくらいです。
号令をかけなければならない、人前で話さなければならない、もちろんこれは私にとってとても辛いことでしたが、それ以上に、そこから少し逃げたことを責められてしまったことがきつかった。

つまり、やはり一部の人を特別扱いするというのは、特別扱いされない人にはとっては、ずるいという感情を持ってしまうのは、当然のこと。

それならば、いっそのこと、全員を特別扱いすれば良いのに。
そういう方向で物事が進んでいけば、ずるいという感情も軽減されるでしょうし、そう思われることで肩身が狭くなることもなくなるのではないかと。

例えば、受験だったら、最初から最も点数の低かった教科については、合格の判定から外すとか。
こうなれば、1科目くらい、仮に0点をとるくらい苦手でも、全く不利にならない。

もう苦手を克服することを重視する時代ではないなというのが、最近のいろいろな本を読んで思うことです。
苦手なものを克服するのって、得意なことを伸ばすのに比べて、ただでさえ時間もかかるし効率が悪い。それなら得意なこと、好きなことに取り組んだ方が、自分のトータルの力は大きくなるし、もっと社会に貢献できるようにもなるはず。

最も点数の低かった教科を合格の判定から外すのと同時に、最も高得点の教科は、点数を2倍に換算して評価すれば、もっと良いのではないかと思います。
できれば、なんでも満遍なくできる子は、それはそれでとても大きな才能ですので、今までどおりの評価を適用できるようなルールもあったらなお良いのかな。

 

ちなみに、私が大学受験の時の話です。
センター試験がまだ共通一次と言われていたときの話です。

私の点数はだいたいこんな感じでした。
英語 170点(200点満点)
国語 100点(200点満点) 内訳 現代文ほぼ100点、古典ほぼ0点
数学 200点(200点満点)
物理 96点(100点満点) 最後の問題で、痛恨のケアレスミス
日本史 70点(100点満点)

合計で約640点(800点満点)
某T大の足切りが8割くらいだと言われていたのですが、見事に切られてしまいました。
もともと短い足だったのに、さらに短くなってしまいました(笑)。

もしも国語の古典の部分が合否の判定に使われなかったら...と思うと...(笑)。
古典については勉強が足りなかったことは認めます。しかし、決してなめていたわけではないのです。もともと大の苦手ですので、がんばっても大きな得点源にはならないという判断です。マークシートですので、最悪の場合、適当に解答してもそれなりに点は取れるのではないかという甘い気持ちもありました。
他の教科はほぼ予定どおりの点数で、古典だけが想定外。テキトーに答えて20~30点くらい取れていたら、十分に足切りにはかからなかったのだと思っています、というより思いたい(笑)(笑)

えーと、まとめますと、苦手なことを我慢して取り組むよりも、自分の好きなこと、得意なことを伸ばした方が、生きるのが楽しくなるし、生きずらさもなくなるだろうし。
そして、社会的にも役に立つ人になれるのではないかと思います。
そして、そういう考え方に世の中はシフトしている(はず)。

もしもその方向に世の中を進めたいと思うのなら、教育から変えなければならないし。そして、教育から変えようと思うのであれば、入試のやり方もそれに沿ったものにしなければ、変えていくのは難しいのかなと思います。

いろいろと好き勝手なことを書いていますが、一言で言うなら、私に都合の良い合否の基準だったら良かったのに、ということでした。
ちなみに、私は古典の0点よりも、物理で犯した最後の問題のケアレスミスの方が悔やんでも悔やみきれないのです。
もうずいぶんと昔の話ですが、未だに悔やんでいます(笑)。

*1:吃音者ではない人